その瞬間


どすん。どすん。
自分の胸を握りこぶしで強くたたく音が鈍く響く。
苦しいという想いそのものが音になって目の前のぼくを叩きのめす。
どすん。どすん。
隣に座る奥さんの顔に表情があまり見当たらない。
きっとこの音を毎日毎日5年間
二人きりのあの家で聞き続けたから。
どすん。どすん。
ぼくの父親と同い年の目の前の人。
こらえきれずぼくの喉から出かかるお決まりのことばは
そのあまりの薄ら寒さに結局飲み込まれて
胸のわだかまりになって。
わからないということがわかるつらさ。
そして、そのつらさがわかってしまうつらさ。
ついさっきこの和室で二人きりのときに聞いた
涙にまみれた奥さんのことば。
どすん。どすん。
そのとき襖がすっと開き
洗い物を終えた嫁が隣にトンと座る。
空気が少しほぐれたこの機を逃したくないと
ぼくは言葉をねじ込む。音をねじ込む。
「なんか、こう、ご趣味とかは」
「見合いか」という嫁の蔑みを横顔に感じながら
宙に浮いた落としどころを必死にたぐり寄せようとする。
「いや、何でも結構なんですけど」
見兼ねた奥さんが言う。
「キョボクノカイです」
「へっ?」
「いや、あのご神木とかの」
「あー巨木」
「そういうの、昔は二人で行ってたんですけど」
「ちなみにこの辺では」
「一言主神社とか」
ハッとする気配を隣に感じ、思わず横を向く。
嫁の向こうには、えーさんが座っている。
ここで初めて出遇った人。
突然思い出したかのように父親のことを話し出し
その不在に涙を流すえーさんを想い
というよりあまりに時間を持て余していたので
つい先日里帰りを兼ねて一緒に行ったその土地に。
たしか。
えーさんは知ってか知らずかぼんやりといつもの顔で。
嫁が言う。
「あー、そこだったらこの間近所に行きました。
今度機会があったら、是非行こうって・・・」
そして気づく。
どすん。が不意に止んだことに。
急いで顔を正面に戻す。
その握りこぶしがゆっくり開かれて
ぎこちなく前に伸ばされてくるのが目に入る。
固唾を飲んで行方を見守る。
ぼくの隣にその手は伸びていく。
戸惑う嫁にその手が届きそうになったその瞬間
その人は言った。
「縁やな」
それを合図にこわばっていた表情がとける。
嫁がその手を握り返す。
和室全体の空気もとける。
奥さんがさっきとは違う涙を流す。
直視できずぼくはまた横を向いてしまう。
なぜかつられてえーさんまで涙を流しているのが目に入る。
吹き出してしまったぼくの笑い声に
たくさんの笑い声が重なる。

完璧な瞬間に出遇った。

しなくてはならないことに出遇った。

生きている実感に出遇った。